歴史
布の歴史
小千谷縮布の展開
魚沼地方では古くから、農村地域で自給用の麻布が織られ、人々の日常の衣服として重要な役割を果たしてきた。この時期の麻布は雪深い魚沼農村の女子が自家栽培の麻から麻糸をとり、冬の副業として「いざり機」で織ったもので、それは「自給的農村手工業」の生産形態であった。その後、堀次郎が小千谷に新しい機織りの技法を伝えたことによって、従来の麻布は縮布へと展開した。
この縮布は急速に、小千谷を中心として魚沼や頚城地方の農村地域に広がり、自給的農村手工業から商品としての縮布へと発展していった。越後における縮布の全盛期は天明年間(1781~1788)で、小千谷を含む越後全域では20万反の生産があったとされている。
近世来、魚沼地方にも絹織物が次第に浸透し、縮布の技法を生かした蝉の羽根のような絹織物である「透綾織」がさかんになり、縮布は次第に生産が減少してきたが、小千谷は依然として縮布の伝統を守り、絹織物の導入には消極的であった。
- 1. 苧績み
- 2. 墨付け・絣くびり
- 3. 藍染め
- 4. いざり機織り
- 5. 足踏み・シボつけ
- 6. 雪さらし風景
小千谷縮布年表
西暦 | 年号 | できごと |
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200 | 縄文晩期 | 日本の遺跡から布目の圧痕のある土器片が現れる。 |
239 | 女王卑弥呼の使節、魏国に織布を捧げ、同国から錦、白絹等の高級織物を下賜される。 | |
749 | 天平勝宝 | 越後国久足郡夷守郷より献ずる庸布一段が正倉院に現在残っている。 |
927 | 延長5年 | 延喜式において、越後国商布一千段の貢納が決定。 |
1192 | 建久3年 | 源頼朝、従夷大将軍宣下のため鎌倉に下向した勅使に「越布一千端」を贈る。越布は越後麻布の意。 |
1337 | 建武4年 | 上杉憲顕、越後守護となる。 |
1486 | 文明18年 | 越後国守護上杉房定、将軍足利義尚に、越後布製30端を贈る。このような記録は頗る多い。この頃の武家作法書に、越後布製の素襖を着ないと幕府の御用に出仕できないと明記してある。 |
1523 | 大永3年 | 魚沼郡の青苧を運ぶ専用船苧船が戦乱のため若狭国で16艘拿さる。 |
1560 | 永禄3年 | 上杉謙信上洛し、多数の越後麻布を宮中に献上。 |
1586 | 天正14年 | 上杉景勝、豊臣秀吉にはじめて謁見したとき越後布300端献上。 |
1598 | 慶長3年 | 上杉景勝、春日山城主55万石から会津若松に移される。越後に於ける青苧生産は領主的保護を失う。後日「苧は上杉公に随きて会津へ行きたり」と云われた。 |
1601 | 慶長6年 | 直江兼続、越後青苧を出羽国米沢に移植。 |
1624 | 寛永元年 | 松平光長、高田藩主となり越後を支配。 |
1631 | 寛永8年 | 魚沼郡における麻布生産高2,803疋。 |
1651 | 慶安4年 | 小千谷の豪家ら、青苧、麻布を京坂、江戸等と大量取引し、問屋業を始める。 |
寛文年間 | 縮布の始祖 明石次郎(諡名堀次郎将俊)小千谷に来住。麻布の品質改良を教えた。これより縮布という一段の高級品となる。 | |
1673 | 延宝元年頃 | 小千谷・十日町・堀之内における縮布がしだいに盛んになる。 |
1681 | 天和元年 | 越後騒動のため、松平光長家改易。魚沼郡は幕府領となる。 |
1688 | 元禄元年頃 | 幕府・諸大名から縮布のまとまった大量注文が増える。これを御用縮布といい、織女は精魂を込めて織った。 |
1698 | 元禄11年 | 縮布運上金(税金)民間人の請負徴収制となる。 |
1724 | 享保9年 | 魚沼郡は会津藩領所となる。 |
1770 | 明和7年 | この頃より絣模様指定の御用縮布の注文が来る。 |
1779 | 安永8年 | 小千谷の縮布問屋19人の名がある。彼らは富商となり、地主として成長する。 |
1782 | 天明2年 | 魚沼郡の縮布生産商、22万反を超過。 |
1783 | 天明3年 | 飢饉のため各地に暴動が起り、人民困しむ。 |
1792 | 寛政4年 | 与板領の小作人、問屋地主にたいし、小作米不納の一揆を起こす。 |
1797 | 寛政9年 | 一揆は小作人の敗訴となり終結。 |
1814 | 文化11年 | 行商人が増加し、江戸の呉服問屋に訴えられる。訴訟の結果、行商人の数を制限し越後全体で115人の行商株が成立。 |
1818 | 文政元年頃 | 縮布の減産傾向が顕われ、絹織物が台頭してくる。 |
1842 | 天保13年 | 天保改革のため高級縮布が一時的に禁止された。 |
1848 | 嘉永元年 | 始祖明石次郎を祀る明石堂再建。 |
1865 | 慶応元年 | 減産の縮布の代りに、絹織物に運上金を課するとに反対し魚沼郡に暴動が起きた。 |
1871 | 明治4年 | オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に縮布を出品。 |
1873 | 明治6年 | 輸入化学染料使用者が増加。粗悪品のため、柏崎県で使用禁止。 |
1874 | 明治7年 | 小千谷に機会社創立。木綿、絹織物を製造、縮布は製造せず。 |
1911 | 明治44年 | ラミー糸の輸入により、新しい麻織物の時代に入る。 |
1992 | 大正11年 | 町立小千谷麻織物研究所を創立。 |
1933 | 昭和8年 | 麻織物研究所の創作品夏月織完成。 |
1937 | 昭和12年 | 夏月織、全国夏織物競技大会で特賞獲得。 |
1955 | 昭和30年 | 越後上布・小千谷縮布の製作技術が、国指定重要無形文化財となる。 |
1975 | 昭和50年 | 通商産業大臣より「伝統的工芸品」としての指定を受ける。 |
2009 | 平成21年 | 国指定重要無形文化財「小千谷縮・越後上布」の技術がユネスコの無形文化遺産に登録される。 |
始祖 堀次郎将俊
小千谷縮に生涯をかけた堀次郎将俊
寛文年間、播麿明石藩士だった堀次郎将俊は浪人として小千谷地内山谷の庄屋西牧彦治工門宅に身を寄せ、近隣の人に読み書きを教えていた。そんなある日、この地方で織られている越後麻布に着目し、夏の衣料として改良することを思いついた。苦心の末、緯糸に強撚をかけて布を織り上げ、仕上げの工程で布に涼味を感じさせるシボを出す技法に成功した。
また、これまでの白布に縞や花紋などの模様を織り出すことにも成功し、従来の越後麻布に革命的な成果をもたらした。堀次郎将俊はこの小千谷縮の製法を惜しみ無く公開伝授し、各生産地の産量は急激に増加した。
小千谷村の記録では、天和元年(1681)には2,517反だったのが、翌年には5,062反になったほど。縮取引も活発になり、問屋制度も確立した。このように、堀次郎将俊は画期的な技術を完成させたばかりか、越後の産業に革命的な成果をもたらした。そして、小千谷縮の始祖堀次郎将俊は、61歳でその生涯を閉じた。
没後、縮関係の人達が彼の業績を称え極楽寺院内に寛永元年(1848)に明石堂を再建し、堀夫婦が静かに眠っている。
世界
無形文化遺産登録
重要無形文化財「小千谷縮・越後上布」がユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の無形文化遺産保護条約に基づき、
平成21年9月30日人類の無形文化遺産の代表的な一覧表に登録され、人類共通の世界無形文化遺産となりました。
重要無形文化財の指定要件
昭和30年5月12日指定
- すべて苧麻を手うみした糸を使用すること。
- 絣模様をつける場合は、手くびりによること。
- いざり機で織ること。
- しぼとりをする場合は、湯もみ、足ぶみによること。
- さらしは、雪ざらしによること。
小千谷縮・越後上布制作工程
原料(青苧あおそ)
小千谷縮・越後上布の原料になる苧麻は、主に福島県の昭和村で栽培されている。上杉家の会津移封と共に、良質な苧麻は越後から会津へと移った。 成長した苧麻を刈り取り、数時間清水に浸けて皮をむき、その皮の肉質をこそぎ落して繊維だけを取り出し、乾燥させ原料の青苧を作る。
苧積おうみ(手うみ)
水に浸してやわらかくした青苧を爪で細く裂き、その糸先をより合わせてつないで、均一の太さの糸を積み、苧桶に入れていく。
絣かすり作り(手くびり)
図案に基づいて作られた木羽定規又は紙テープによって、墨(印)つけをして、くびり糸(綿糸又は古苧等)で固く巻き(くびり)染色する。その部分が防染され絣が出来る。
製織(いざり機ばた)
ちきりに巻いた経糸を機に掛け、シマキと呼ばれる腰当てで張力を加減し、足首にかけたマネキの紐を引く事により径糸を交差させ、開口した所に緯糸を巻いた管の入った杼を通して打ち込み、さらに筬打ちを行い、織り上げる。
湯もみ・足ぶみ
織り上げた製品は、糊や汚れを落としながら布をやわらかくして布目を詰まらせるための「足ぶみ」を行う。縮はぬるま湯を入れた舟の中で手もみし、糊を落とすと同時に「しぼ」を作る「湯もみ」作業を行い、仕上げられる。
雪ざらし
仕上げの後、さらに白くする製品は天気の良い日に雪上に広げ晒す。天然の漂白作用であるこの雪ざらしは、魚沼地方の春を告げる風物詩となっている。